弱さを見せる強さ

「強くなったね」

昔、自分の弱いところを一番見せていた相手から言われた言葉だ。

当時はまだその言葉の意味を上手く理解できずにいた。が、いまになってようやく彼女の言わんとしていたことが分かる気がする。

コンプレックスを必死に隠す日々

高2の春。クラス替えを終えたばかりの私たちは、一人ひとり教壇の前に立ち自己紹介をすることになった。みんな名前と出身中学だけを述べる代り映えのない挨拶。そんななか、のちに親しくなったA子の挨拶だけが、いまも強烈な印象として脳裏に残っている。

「火傷のように見えますが、痛くも痒くもないので心配しないでください」

生まれつき右手の指先から胸のあたりにかけて大きな赤あざがあった彼女は、その手をみんなの前にさらけ出しそう言った。いま思うと、彼女なりの精一杯の強がりだったのかもしれない。ただ、当時は凛とした佇まいで表情ひとつ変えずにそう言ったA子がとても眩しく見えた。

あの頃、私はまだ自分のコンプレックスを必死に隠して生きていた。子どもの頃から、胸の真ん中にある少し大きめのほくろが嫌いだった。薄手の服を着る時期になると、このほくろが人の目にさらされないか気になった。夏の定番行事、ラジオ体操やプールではそのことばかり考えてしまい思い切り体を動かすことができなかった。

同調圧力に怯え、心に鎧をまとい始めた中学時代

中学に入ると、私はこうした傾向をさらに悪化させた。

「同調圧力」の強かったこの学校では、校則とは別に暗黙のルールがあった。例えば、靴下。校則では「白色ソックス」となっているのだが、生徒同士の間では一年生はくるぶしまで靴下を折り返して履く「三つ折りソックス」、二年生は「折り返さなくてもOK」、三年生は「ワンポイントOK」という決まりがあった。少しでもこのルールに抗おうものなら、自転車のタイヤをパンクさせられたり、サドルを傷つけられたりした。

放課後、部活を終え、薄暗くなったグランドを抜け駐輪場まで歩きながら、自分の自転車に異変はないか、いつもドキドキしていた。朝別れたときと変わらぬその姿を目にする度に、「今日も無事に乗り切れた」とほっと胸をなでおろしたものだ。

先輩に目をつけられないよう、いじめの標的にならないよう相手の顔色ばかりを伺う日々。言葉を発するより先に「こう言ったら、どう思われるだろう」と考えるようになったのは、この頃からだ。気づけは辛いことも、恥ずかしいこともすべて本音を隠すようになっていた。

高校は校則こそ厳しかったものの、生徒間では中学時代よりも個々を尊重する雰囲気があった。そんななか自分の殻に閉じこもっていた私は大人びて見えたのか、周りからよく相談を受けるようになった。恋愛、受験、父親からのDVなどいろいろな悩みの相談窓口になっているうちに、自分との対話は減り、ますます弱音が吐けなくなっていった。

悲劇を喜劇に変える「笑いの文化」との出会い

転機が訪れたのは、大学生の頃だ。大阪の大学に進学した私は、そのオープンでフランクな雰囲気に最初は衝撃を受けた。「笑いといえば関西」といわれるように、普段の会話にボケ、ツッコミを入れるのが当たり前。友人同士の距離感も、私がそれまで感じてきたものよりずっと近い。だいたいの友人が自分の失敗やダメなところを面白おかしく話し、周りもそれに対して鋭くツッコミを入れていた。

授業を終えたある日の放課後。仲のいい友人の一人と、キャンパスのベンチに腰掛けバニラアイスを食べていたときのことだ。彼女が「白と黒のコントラストが生えるやろ?」と黒くなったその前歯をのぞかせた。シャワーノズルにぶつけて、神経が死んでしまったらしい。後々、話を聞くと、このことで彼女はそうとう落ち込んだようだが、くよくよと下を向いているよりも、笑い話に変えてしまった方が楽だ!という結論に至ったのだという。

弱さを受け入れることで生まれる安心感

こうしたオープンな環境に最初こそ違和感を覚えたものの、いつからか心地よさを感じるようになっていた。自分を守るためにまとっていた心の鎧が少しずつ剥がれ落ち、ここでの仲間には本音や弱音を吐けるようになった。そんな私に友人がかけてくれた言葉が「強くなったね」であった。

人は自分の弱さを認めてこそ、強くなれるのかもしれない。その弱さをさらけ出し、 “自分”という人間を受け入れてもらうことで安心感や自信が生まれる。辛い話や恥ずかしい話を笑いに変えることで、折れそうな心が支えられることもあるのだろう。

「弱さを見せる強さ」

このことについて考えると、大学のベンチでアイスを片手にニッと笑う彼女の姿がいまも思い浮かぶ。何年たっても色あせないその光景に、私の顔にも自然と笑みがこぼれるのであった。

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